テリー・ギリアムのドン・キホーテ

面白いから見たほうがいいと父に言われていたけれど京都では上映していなくて地団駄を踏んでいたテリー・ギリアムドン・キホーテamazon primeにあったので満を持して観ました!!

予告編とは実際雰囲気全然違いますね...驚いちゃった。

内容としては、ある学生の自主制作映画のドン・キホーテ役に素人のおじいさんを起用してそのおじいさんはドン・キホーテを演じることになるんだけれど、最初は全く演技できなかったおじいさんがどんどん演技を上達させて役にのめり込んで行くうちに、役に入り込みすぎて映画撮影が終わった後も自分はドン・キホーテと思い込んでしまい、ドン・キホーテとして生きていく。その自主制作映画の監督(今はcm撮影のディレクター)がたまたまそのおじいさんに出会い、いまだにその役に取り憑かれていることに驚き呆れつつも成り行きから二人で旅に出ることになる...といった話でしたが。(説明下手だなあ)

 

側から見れば馬鹿らしいことを本人は大真面目にやっている、というこのギャップがこの映画の質の高いコメディを作り上げている。ジョナサン・プライス演じるドン・キホーテ(ハビエル)が主観の役割を果たし、アダム・ドライバー演じるトビーを筆頭とするその他の登場人物が客観の役割を果たしてこの構造は出来上がる。そしてこの主観と客観の違いを見ることができるのは私たちが映画を見るという客観の役をも客観する、言ってみれば「超・客観」の立場に立っているからである。そのことに気づかないから「超・客観」の立場に立つ私たちは序盤で笑っていられる。こんなに大真面目に自分がドン・キホーテだって思い込むなんて馬鹿だな〜。この時は客観の役割を果たすトビーたちに感情移入して呆れたり笑ったりしている。

でも、どんどん終盤にかけて笑うことができなくなってしまう。どんどんドン・キホーテの主観側に感情移入してしまうからだ。

人は主観でしか人生を生きられない。他者と自分の境界線を引くために、自分に輪郭をつけるために、自分は大体こんな人間だと決めて、無意識に自分という役を演じて生きている。自分が認識している自分と他人から見た自分が全く違う、ということに多くの人は気づいている筈だ。しかし自分の人生を主観でしか生きられない限りそんなことを考えても無駄だとそのことから目を背けているのではないか。他人の目に自分は滑稽に映っているのかもしれない、というのは人々共通の不安だろう。

ハビエルは、自分をドン・キホーテだと思い込み、その役を演じ続ける。あまりに馬鹿らしいけれど、だんだんハビエルがあまりに本気でドン・キホーテだと思い込んでいるのでだんだんハビエルの存在がリアリティを持ってくる。わたしたちは、主観と客観のギャップに気づくことのできないドン・キホーテが自分だということに気づき始める。そしてその悲惨さにどんどん笑えなくなってくる。

 

この映画は客観的には(トビーたちにとっては)コメディであり、主観的には(ドン・キホーテにとっては)人生という悲劇そのものである。そしてこの映画では最終的に客観が主観に取り込まれる。トビーやアンジェリカ、そして私たちはドン・キホーテに感情移入するようになるのるのだ。その上で、ドン・キホーテの人生に心を打たれる。ドン・キホーテ(ハビエル)は確かに客観的には滑稽だが、確かに自分の美学を貫き通す生き方をしていた。どんな試練にも(それが妄想であろうと虚構であろうと)果敢に挑戦し、自分の命を投げ打ってまで人を助けようとした。虚構であれ妄想であれ、試練に立ち向かい自分を貫き通す勇気や姿勢は確かに存在する事実として私たちの胸を打つ。どんなに側から見て滑稽であろうと惨めであろうと、どんな風に生きたのか、自分が誇れるような生き方をしたのか、ということが重要なのだ、というメッセージを私たちはドン・キホーテから強く受診する。

 

 だから、最後にトビーがドン・キホーテだと思い込んでしまったとき、もう笑うことはない。そもそも全ての人生は主観の思い込みなのだということを私たちはすでに理解しているし、トビーは序盤での堕落しただらしない生活から、ドン・キホーテという新しい、誇らしい生き方を獲得したのだから。

 

 テリー・ギリアムドン・キホーテは、主観でしか生きられない私たちの人生の不条理に寄り添い、希望を与えてくれる物語だった。

 

わたしもいつか、胸を張って言えるようになりたい。

 

「アイアム ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ!」